古寺の甍 無量の想像力

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「古寺の甍」(こじのいらか)(1977 河出書房新社)を読んでいる。古本だ。
著者の多田智満子はマルグリット・ユルスナールをたぶん、初めて訳したひと。
そのひとが、古い寺を訪ねて歩いて書いた文章。
こういう、日本のことを書いた本があるのは知らなかった。
最初、あの多田智満子?と思って手にとると、出てくるのが関西近在の寺。
歴史、名刹とかに疎く、でも年相応に、六甲に住んだひとが書いてくれた本で
勉強して、いつか近所の寺を歩くのもいいかな。と思って買った。
これが、ふつうの渋いお勉強ではなかった。いい。

たとえば鞍馬寺。
奥の院の、底無しの静けさのなかにたちつくす義経に思いをはせる著者が
山門の木札をみてこれはおかしいと菅長に訊くあたりから、
650万年前に金星から鞍馬に降臨した魔王の話、寺の本尊である毘沙門天との
オカルト的なかかわり、天狗についての考証、と
荒唐無稽な縁起が誘う、混交する世界に迷いこんでいく。
印欧、東アジアと、文化の源泉をたどる眼の、奥行きと、
時空を、まるで天狗のように行き来する想像力。

参詣の導入部としての、石段が、冒頭から何度か出てくる。
簡単な描写だが、石段をのぼる生身の感覚は、後年、
著者が入院生活の中から紡ぎ出し、のちに遺句集に収められた句に
鮮烈なイメージとして出てくることに思い当たる。
これはあの句の、…と思って読み、胸を打った。
それは遺句集「風のかたみ」所収の、例えば

ぐらぐらの石踏むや夏の澤登り

あるいは

水すまし水を踏む水へこませて

…これらは著者が病室を一歩も出ないで、たぶん肉体の記憶から生み出した
生のイメージなのだ。


青岸渡寺の二部にいたっては現実の紀行文は後退、ほぼ消滅して、
あるのは水けむりにとりかこまれた一筋の滝への夢想に発する思索に終始する。
紀行なのに、ほとんどがイマジネーションだけの世界。

想像力だけで、どこまでいけるのか。
天狗よりも、神話のヤタガラスよりも、多田智満子の飛翔が驚異だ。

でも頭の中だけじゃない。
もちろんこの本は多田さん40代、実際に歩き、触れ、感じた世界の記録でもある。

播磨の鶴林寺で鐘を撞いたときの描写がある。
「…ふつうの梵鐘の、あの重く沈んだ盤渉調の響きではなく、カーンと冴えて、一切のもたもたした煩悩を、吹っ切るような音色である。しかもそのあとに、透き通った沈痛の余韻を残し、ただの一音で無量の音楽をひびかせている……。」
それは実際どんな音だったんだろう、と思う。

載っているのは全部で17のお寺。
電車の行き帰りで読んでいる。1篇、1篇、楽しんだ。楽しんでしまった。
あとふたつしか残っていない。



写真は11日の朝に見た木。雪の、名残。

by ichirographics | 2011-02-19 10:53 |

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